現在クセジュの小学部は4年生から6年生を対象に、ヒューマンサイエンス(主に国語社会融合型の文系教科)とナチュラルサイエンス(算数理科融合型の理系教科)、そしてエレメンタリーイングリッシュ(英語)の3科制で授業をやっています。
初めて聞く人は「ヒューマンサイエンス」だの「ナチュラルサイエンス」って一体ナニ?と思うに違いありません。無理もありません。一回聞いただけでそのイメージがわく人はまず皆無でしょうから。「そもそもそんな教科ってあったっけ?」というのが大部分でしょうね。国語と社会の融合?算数と理科の融合?
ヒューマンサイエンス(私たちはHSと呼んでいる)とかナチュラルサイエンス(同じくNS)という変わった(笑)ネーミングの教科が、いつどのように生まれたのか。なぜ素直に国語・算数・理科・社会という教科でないのか。当然疑問に思うであろうそれらの問いに答えるには、実はクセジュの小学部の歴史というか私自身の教育経験─失敗や成功の数々─を振り返って話さなければなりません。
さらに少し偉そうに言うなら、現代の教育の抱える根本的問題点にも触れないわけにいかないのです。
というわけで「教科の枠」を超えたという点で日本の教育史上もっともユニークと言われる─クセジュだけで言われてる?(笑)─クセジュ小学部のHS、NS誕生に至る経緯(いきさつ)を語ってみようと思います。
何とクセジュには中学受験クラスがあった!
クセジュに中学受験のクラスがあったと言うと驚く人がいます。職員の人たちの中にも「そうなんですか!初耳です…。」と答える人が多い。まして創立直後にいち早くあのK成中学やM蔵中など名門校に合格者を出し、その後も一定の合格実績を上げていたことなど私以外知る人はいません(汗)。それほどクセジュは「中学受験をやらない塾」という印象が強いのでしょうね。
事実は1995年まで中学受験科は存在したのです。クセジュ創立は1984年12月ですからおよそ10年くらい中学受験生を教えていたことになります。当時の小学部は受験科と本科に分かれ「受験科」は主に私立中学を受験する子のクラス、「本科」は受験せず公立中へ進む子のクラスという色分けでした。
実は「受験科・本科」2本立てのこのやり方はクセジュをつくる前、私が勤めていた別の塾のシステムをそのまま踏襲したものだったのです。
以前こちらのblogにも書きましたが(カテゴリ:クセジュ創成編・新生編)、希望に燃えてクセジュを立ち上げた時、私たちはビデオ授業やディベートなどかなり大胆なカリキュラムや斬新な試みを次々実行していきました。それらはまさに塾業界における革命(!)とも言うべきものだったと今でも秘かに自負しています。エヘン!
しかし、今振り返ってみると、それらは専ら中学部が中心であって小学部にまでその改革は及ばなかったのです。というか小学部にまで手が回らなかったというのが正直な言い分です。何しろ新しい塾を創立することに伴う様々な困難に加え、以前勤めていた塾との金銭的・人間関係的トラブル─それは訴訟にまで発展した!─に忙殺されていましたし…。
(その辺の詳しい事情についてはカテゴリ:クセジュ創成編・新生編のエントリをご参照下さい。)
…とマァ言い訳はこれくらいにして、とにかく小学部─特に受験科─は以前の塾のシステムをそのまま引き継いだ形だったのです。
小学生の受験勉強は考える力を奪う?
引き継いだ形というのは次のようなものです。中学受験を希望する子は、都内の中学受験専門の大手塾の会員テストにまず合格してもらうよう指導します。この大手塾を仮にA塾とします。A塾は毎週日曜テストという大規模テストを実施し、成績に基づいて会員、準会員という資格を生徒に与えるわけです。どちらにもなれない子はとりあえず「準会員」を目指します。日曜テストは中学受験問題そのものと言えるほどの内容形式なので、会員・準会員になれるかどうかは合否を占う確かなバロメーターなのです。
当時多くの塾はA塾から「A準拠塾」と認定してもらうことで中学受験生を集めていました。それくらいA塾の名前は中学受験にとって権威あるものだったのです。従って中小の塾は一定のロイヤリティを払う代わりに「A準拠塾」の看板を掲げることができ、またA塾のテキストを使うことを許されます。そして毎回の授業はこのA準拠テキストを用いて行われます。つまりこのテキストに沿って勉強することはすなわちA塾の日曜テスト対策であると同時に中学受験勉強になるわけです。それが以前勤めていた塾のやり方で、クセジュもその形をそっくりそのまま引き継いだのです。
いやあ、しかしこのテキストというのがなかなかのクセモノでした!テキストというより問題しか載ってない。要するに全編入試問題が並んでいるだけ…(汗)。
でもさすがに受験科の生徒たちは気合いが入っています。能力的にも優秀な子が多い。きちんと一生懸命予習(宿題)をやってきます。授業はひたすら答え合わせとテクニカルな解説。背景的説明とか掘り下げてじっくり考える余裕はありません。何しろ日曜にはテストがあるんだから。とにかく様々な解法パターンを何百通りも覚えてもらわなければなりません。詰め込みといえばまさに詰め込み。ひたすら詰め込む毎日です。
さぞかし苦痛だろう…とここで多くの人は思うかも知れません。確かに苦痛でした。少なくとも私にとっては。答え合わせだけでは塾講師としての満足感も得られません。だって色々面白い話もしたいじゃないですか。「これは実はこういう話とつながっているんだよ」とか「例えばこれは・・・」など話をふくらませ生徒の興味関心につなげていきたいというのは教育者なら誰でも持っている本能でもあるわけで・・・。
しかし生徒たちは必ずしも苦痛ばかりではなく、一種のゲーム感覚を楽しんでいる様子も時にはありました。小学生というのは、悪く言えば理由など考えず何でもかんでも覚えてしまえるところがあります。たとえば宿題。受験科の小学生は下手な中学生(笑)の数倍出しても平気でこなしてしまいます。当時小学生と中学生の両方を教えていた私はよくこの事実に当惑を覚えたものです。中学生も2,3年生になるとモノ覚えが悪くなる(笑)。
しかしここが落とし穴でもあるんですね。受験科にいる優秀な小学生は何でも─相当複雑な知識でも─丸覚え的に頭にスッポリ入ってしまう。逆に「ナゼそうなるのだろう?」とか「こんな考え方もあるのでは…」などと考えてしまう子や納得づくでなければ覚えられないタイプの子は少なくとも受験科では落伍者になってしまう(涙)。大人になるにつれ単純な記憶力が減退するのも実は理屈で考える要素が大きくなるからなのですね。要するに覚えることと考えることは共存できない。いや正確に言えば、それら2つの力は伸びる時期が違うということでしょうか。だから先ほど中学生はモノ覚えが悪いと言いましたが、むしろ考える力がついてきたからで、何でもむやみに覚えるのは子どもだからこそなんですね。
“中学受験に有利な子は考えるより理屈抜きで覚えることに比重が傾きがちだ”“中学受験の勉強をやり続けることは子どもから「考える力」を奪うのではないか”-そんな疑問が私を捕らえたのは当然の成り行きに思えました。
さらに私が感じたもう一つの疑問は、“中学受験という経験がその子の将来に本当に役に立つと言えるのか?”という問題でした。まあ、こちらの方が私にとっては本質的な疑問だったと言えます。
そのことについて引き続き次回でゆっくりお話したいと思います。
(続く)